8. 神道教派と新宗教
ここでは、日本の新宗教を取り扱う。
資料確定:2025-11-25 8:01
事前学修
紙媒体の情報源やインターネット検索によって、新宗教に関係しそうな最近の事例をいくつか手元に記録しておく(簡単な内容のメモ程度でよい)。
事後学修
授業で扱った人名や基本用語について、自力で簡潔な文での説明を書く(手が回らなかったら、リストアップだけでも)。
思い浮かばなかったところは調べて書けるようにしておく。
わからなかったものはノートなどに記録しておく。
(以上は、授業を聴きながらまとめられるようであれば、それでもいい。)
9.1. 「新宗教」とは何か:その定義
「新宗教」という用語(井上順孝「新宗教」『現代宗教事典』弘文堂)
日本の近代社会において出現した新しい組織原理、活動形態の宗教運動や宗教団体を総称する概念。
新興宗教という用語が使われることもあるが、この場合、新宗教とほぼ同意義の場合と、やや批判的な意味合いを込めていわれる場合とがある。
民衆宗教という言い方もあり、新宗教と大きく重なるが、民衆宗教は担い手の特徴に注目した言い方であり、とくに幕末維新期の運動を指すことが多い。 また欧米では似たような団体に対して、新宗教運動(new religious movement、略称NRM)という言い方があるが、日本における新宗教とは少し異なり、新しい運動というだけでなく、異文化宗教というニュアンスが含まれることが多い。またNRMにはニューエイジ運動なども含められるのが普通である。 新宗教という概念は、戦後とくに1960年代以降に確立したもので、それ以前は、現在のような観点から研究する視点は確立されていなかった。
今日新宗教に含められる天理教、金光教、丸山教などは、戦前は神道教派あるいは、その支部教会といった位置づけがされていた。 また、いくつかの団体は、類似宗教、擬似宗教という表現で呼ばれた時期がある。 さらに、批判的な呼称として、一部の団体には、淫祠邪教という言い方がされることもあった。
戦後、宗教社会学や近代日本宗教史の研究が進むにつれて、新しい宗教運動、宗教団体を日本の近代史の中に位置づけ、また社会変化とのかかわりで分析していく研究が主流となった。
そして新宗教という、批判的意味を含まない用語が広く用いられるようになった。
1990年に『新宗教事典』が刊行されたことは、この用語法の定着を示している。
9.2. 新宗教の発生時期
発生時期に関する説(島薗進「新宗教の発生時期」『新宗教事典 本文篇』)
幕末維新説:最も多くの論者が採用。
それ以前に成立していた宗教を含め、1850年以降維新期にかけて発展した教団・宗教集団を対象として考えている。
20世紀初頭説
おおよそ大本以降を「新興宗教」とし、それ以前の既成宗教でない宗教については、「教派神道」がほぼ該当すると考えたり、「民衆宗教」と呼んだりする。 その他の説
第2次世界大戦後とする説
江戸時代末期以前のなんらかの時期とする説:前近代の「民衆宗教」
8.3. 新宗教のアウトライン
典型的な新宗教のあり方(井上順孝「新宗教」『現代宗教事典』)
形成過程:
神職・僧侶といった宗教家としての訓練を受けた経験のない人物が、何らかの契機で宗教的世界に目覚める。
この人物を宗教的指導者として信奉する人びとの集団が形成される。
やがて独自の組織を作り上げる。
教えの内容:
民俗信仰や伝統宗教から大きな影響を受けている。
多くは、それらをわかりやすい形で説くというものである。
運動形態:
一般の信者が布教に積極的に関与する(万人布教主義)。
この点が、伝統宗教との違いが最も際立つ点である。
新宗教の前提となる宗教伝統(島薗ほか)
民俗信仰・習合的信仰
民俗信仰としての講
法華系(日蓮系)の在家講
通俗道徳・修養
新宗教の系譜
(「分派と影響関係」[『新宗教事典 本文篇』]、井上『新宗教の解読』、島薗『新宗教を問う』などによる)
初期新宗教:いわゆる「教派神道」に該当する…
天理教系
大本教・大本教系の教団
霊友会・霊友会系の教団
世界救世教系の教団
新宗教の組織モデル(大谷「新宗教」櫻井・平藤編『よくわかる宗教学』)
日本生まれの宗教の組織モデル(森岡清美)
1. 「いえ」モデル: 近世に組織化が完了(既成仏教)
2. 「おやこ」モデル:近代に組織化が完了(天理教、金光教など)
3. 「なかま-官僚制連結モデル」:現代に組織化が完了
新しいモデルほど柔構造で効率的、と説明する。
時期ごとの新宗教の動向
江戸後期~幕末・維新期
黒住教、禊教、天理教、本門佛立講、金光教、など
創始者:「教祖神」:黒住宗忠(1780--1850) 備前国御野郡上中野村の今村宮の禰宜職の家に生まれ、文化7年(1810)に同職を継いだ。
立教:「文化11年(1814)の冬至の日、黒住宗忠は、日の出を拝む中に天照大御神の真実体を自得するという、後に「天命直授(てんめいじきじゅ)」といわれる宗教的神秘体験をして立教になった」(「教団データベース」[宗教情報リサーチセンター〈RIRC〉 HP])。 宗忠は、翌年から禁厭祈禱と講釈を中心とする布教活動を始めた(「黒住教」『新宗教教団人物事典』)。
信者にはかなりの数の武士も含まれ、知識人層を巻き込んだ運動として展開した(同上)。
宗忠の死後、多くの門弟たちによって中国地方を中心に布教がなされ、幕末には最も教勢の盛んな新宗教となった(同上)。
立教:井上正鐵は「天保4(1833)年、44歳の時、下谷池之端の秋元邸に住む老婆より神道の教説を聞き信心を授かります。それを機に神の夢に導かれ、天照太神の使いである采女より光る明玉を口から入れられ、神命直授を受けられます。」(神道禊教 教団HP)
正鐵は天保9年に白川家から神職の裁許状を受け、天保11年に武蔵国足立郡梅田村の神明宮の神主となって布教を始めた。
正鐵は寺社奉行から「新義異流」の疑義を受け、天保14年に三宅島に配流となり、嘉永2年(1849)に当地で没した(「禊教」『新宗教教団人物事典』)。
その後、弟子たちが各地で「門中」単位で布教し、禊教全体としての統一化する動きは明治を迎えるまでなかった(同上)。
立教:天保9年(1838)に、中山みきが「月日のやしろ」となった時を起点としている(RIRC「教団データベース」)。
その後、「をびや許し」という安産の守護や、疱瘡などの病気治しをはじめ、みきの施す「たすけ」によって人が集まるようになる(「天理教」『新宗教教団人物事典』)。
元治元年(1864)頃から、布教が本格化した(同上)。
教祖:金光大神(赤沢文治)(1814--1883) 立教:安政6年(1859)年10月21日に「立教神伝」を受け、文治はこの日より家業の農業を辞めて、人の願いを神に伝え、神の思いを人に伝えて、神・人ともに助かっていく世界を顕現するための働きとされる「取次」に専念した(「金光教」『新宗教教団人物事典』)。
(教団公式HP)「安政6年(1859)年10月21日(新暦11月15日)、その年の麦まきがすべて終わったころ、神様は金光さまに五色の幣をつくらせ、神前に供えるよう命じました。神様の言うとおりに幣を作ると、「家業である農業をやめて、世間で難儀をしている数多くの人たちを、取次ぎ助けてやってくれ」という願いが告げられました。金光さまはつつしんでこれを受け、自宅を神様の広前として、人を助け導く御用に専念するようになりました。」
元治元年(1864)、赤沢文治は、白川家に初入門した。
教勢は次第に備中・備前・備後に拡大し、明治5年には山口布教、8年に大阪布教がなされた。
日蓮系の在家教団。
嘉永元年(1848)4月、長松は念願の出家を果たした。
安政2年(1855)、長松は還俗した。
僧俗の区別は信心の有無によってなされるべきという考えに至った。
「死後でなく、生きている人を教えるのが仏教の正意であるとし、『法華経』の本門に説く上行菩薩所伝の題目を信心口唱することを教えの根本とし、題目信仰に背くものを斥ける「謗法払い」と自己の罪障を消滅する「懺悔行」、さらに信心の証としての「現証利益」を説く。」(松野純孝「本門仏立講」『国史大辞典』) 1947年(昭和22)、法華宗(日蓮宗)から独立し、本門佛立宗と改称した。 明治初期~帝国憲法発布(1889年):明治初期の宗教政策と神道教派の成立
大教宣布運動と教部省・教導職
明治3年(1870)1月、大教宣布の詔(「宣布大教詔」)。 明治5年(1872)、教部省・教導職の設置(神祇省・宣教使を廃止)。 明治8年(1875)、大教院の解散、神仏合同での大教宣布運動の終了。
「…教部省が国民教化にあたらせるために置いた職員」(阪本健一「教導職」『国史大辞典』):2025-11-25 11:13 追記
「神道教導職」の「神道」は、神社における神祇祭祀ではないものも含む。
教導職への参加は、その当時、それまで公に宗教や教団と認められていなかった宗教者や宗教的集団が、公的に認められる限られた手段でもあった。
このような政策に触発されたこともあって、民俗信仰・習合信仰の中から、教導職に参加したり、教会・講社としての公認を受けようとするなかで、「神道」的性格を新たに備えたり、強めたりするものが出てくる。
従来の多様な宗教集団のうち、神道教導職に参加した国学者や民間宗教者が核になって、近代の宗教制度に則した「神道」的な宗教集団へと組織(あるいは再編成)されていく。
(民間信仰組織を再編成した者や民間宗教者などが「神道」教導職への参加によって「神道」なる組織のメンバーになっている)→神仏合同布教の廃止(教導職における神道・仏教各宗の分離)→神道事務局(「神道」事務局)→そこからの「教派」としての特立・独立(「神道」の別派)→神道教派 (1875年、大教院の解散、神仏合同布教の中止、神道事務局の成立) 1876年(明治9)、黒住講社と修成講社が、それぞれ神道黒住派、神道修成派として一派特立。
(1882年1月、神官教導職分離(内務省達):官社の神官による教導職の兼務や葬儀への関与を禁止した。)
神道の宗教的発展を願う一部の神官は、官国幣社を離れて独自に教派を組織して神道を布教することになった(阪本是丸「近現代の神道」『神道事典』)。
同年5月、神道事務局所属の神宮教院、出雲大社教会、扶桑教会、実行社、大成教会、神習教会が、それぞれ神道神宮派、神道大社派、神道扶桑派、神道実行派、神道大成派、神道神習派として一派特立した。
同年6月、井上正鐵の教えを奉じていた坂田鐵安らは神道禊派の公称を許可された。
同年9月、御嶽教会が神道大成派より独立して、神道御嶽派となる。
同年11月、神道各派のうち、神道修成派と神道禊派を除く8派が、派名から教名への名称変更を願い出て許可され、それぞれ神道黒住教、神宮教、神道大社教、神道扶桑教、神道実行教、神道大成教、神道神習教、御嶽教となった。
1885年(明治18)5月、金光教は神道事務局所属の金光教会となった。
同月、天理教は神道事務局所属の第6等教会となり、初めて合法化された(『天理教事典』、『神道事典』)。1888年4月、神道天理教会設置が認可される。
1886年(明治19)1月、神道事務局は神道本局に改組され、教名を「神道」とし、以後、神道教派のひとつとしての扱いを受けた(「年表」『神道事典』)。:「神道」は独立した教派を形成しえない神道系の諸教会の統轄という機能を担った(井上「神道大教」『神道事典』)。 帝国憲法発布(1889年)~日露戦争後(1908年):神道教派十三派体制の成立
大日本帝国憲法:限定つきで信教の自由を認めた。
第28条:「…日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス…」
明治20年代(1887--1896):現世利益を強調した新宗教が著しく教勢を伸ばした(蓮門教、天理教、金光教)(西山茂)。
蓮門教:明治27年頃までに、公称信者数 20万人
天理教:明治20年代おわり頃までに、公称信者数 5万戸、300万人
明治20年代後半から、新宗教の動向が社会的に注目されるようになり、その結果、厳しいマスコミの批判にさらされるようになった(西山)。
1894年(明治27)10月、神道(本局)所属の神理教会が神理教として、また神道禊派が禊教として、一派独立した。 日露戦争後(1908年)~昭和恐慌(1930年):新宗教の発展期
この時期の特徴(西山茂)
この時期以降、新宗教は独立教派としては新たには公認されず、非公認宗教(1919年以後、法的に「擬似宗教」)として、法的に不安定な活動を余儀なくされた。 新宗教の取締は、これまで呪的行為を名目とするものが主だったが、この時期以後、天皇・皇室に対する不敬罪による政治的なそれへと変化した。
この時期の新宗教には、当時の神秘・呪術ブームの影響が見られる。
この時期の新宗教である太霊道や大本などには、従来の創唱系新宗教にはみられない大胆なシンクレティックな教義形成が見られる。
大本と天理研究会(のちの、ほんみち)に、天理教や丸山教のもっていた「世直し主義」が、いっそう増幅された形で見られる。 この時期の新宗教は、新聞媒体などを通して、はじめて本格的に都市大衆布教を試みた。
この時期に創立された教団
天理教・金光教が、この時期にも着実に教勢を伸ばした。
本門佛立講も、東京・大阪の大都市を中心にこの時期に教勢を伸ばした。
大本は信者数を伸ばしたが、1921年(大正10)に不敬罪などの容疑で、出口王仁三郎をはじめ多数の幹部が逮捕された(第一次大本事件)。
創始者
開祖:出口なお(1836--1918)
聖師:出口王仁三郎(--1946)
明治25年(1892)旧正月に神がかりし、1894年から金光教と合同で布教を行っていた出口なおと、上田喜三郎(のち出口王仁三郎)の出会い(1898年)がきっかけとなって、教団の組織化が進んだ(「大本」『新宗教教団人物事典』)。
初期の入信者は綾部のなおの親類縁者が中心で、やがて出口王仁三郎の霊術に関心をもって来る者が増えるが、1916年に浅野和三郎(海軍機関学校教官)の入信後、海軍の士官将校クラスや知識人の来訪がさかんになった(同上)。
1918年になおが死去する頃から、幹部による、立て替え立て直しの時期切迫という宣伝が激化し、大本信者、特に軍隊や教育界における信者の終末主義的活動が大きな社会問題とされた。
天理研究会(のちの、ほんみち)は大正末年から教勢を伸ばしたが、1928年(昭和3)に大戦と国家滅亡の危機を予告警告し、天皇の神格を否定する内容の「研究資料」を配布し、関係者が逮捕され不敬罪で起訴されるとともに天理研究会は解散を命じられた。しかし、起訴された関係者のほとんどは大審院で無罪あるいは執行猶予となった(第一次ほんみち不敬事件)。 創始者
大西愛治郎(1881--1958)(教団での呼称:甘露台) 1913年、天理教の教師だった大西が、自ら「甘露台人の理」を保有していることを悟った。
天理教本部は、大西の教師の資格を剥奪した。
1914年、天理教の「おさしづ」の研究を目的とする天理研究会を発足させた。
「おさしづ」:なおの教えの筆録を編集したもの。「みかぐらうた」「おふでさき」とともに、天理教で啓典の書・原典とされる。
昭和恐慌(1930年)~第2次世界大戦敗戦(1945年)
1934年、「宗教復興」と呼ばれる社会現象が起きた(大谷)。
そうしたなか、「新興宗教」(≓非公認宗教)が叢生した(大谷)。
宗教分野では、前期までの不敬罪による統制に加えて、治安維持法による取り締まりが開始された(西山)。
1935年12月、大本が不敬罪と治安維持法違反で、再び大規模な取り締まりを受けた(第二次大本事件)。
1936年から37年にかけて、ひとのみち教団の教祖や多数の幹部が検挙されて教団の解散を命じられた。
天理研究会(ほんみち)はふたたび教勢を回復し、1936年に天理本道に改称していたが、1938年に教祖以下400名以上が不敬罪と治安維持法違反で検挙され、以後、結社禁止となった(第二次ほんみち事件)。
宗教団体法:
1939年(昭和14)4月8日公布、翌40年4月1日施行。
「宗教法規の整備統一を図り、宗教団体の地位を明確とし、保護・監督を強化することで,国家の統制下に宗教団体を置くことを目的」とする法律(『世界大百科事典』第2版、平凡社)。
宗教団体の法人としての認可権を握った文部省によって、既成宗教団体を統制する武器として利用された(赤澤史朗「宗教団体法」『国史大辞典』)。
敗戦(1945年)~1950年代:「神々のラッシュアワー」
「神々のラッシュアワー」(マックファーランド『神々のラッシュアワー:日本の新宗教運動』社会思想社、1969年)
「第二次世界大戦後連合国最高司令官総司令部(GHQ)の市民的自由に関する指令によって宗教団体法は廃止が指示され、昭和二十年十二月二十八日、宗教法人令が公布・施行され、同法は廃止された。」(赤澤史朗「宗教団体法」『国史大辞典』)
「第一条 神道教派、仏教宗派及基督教其ノ他ノ宗教ノ教団並ニ寺院及教会(修道会等ヲ含ム以下同ジ)ハ本令ニ依リ之ヲ法人ト為スコトヲ得/本令ニ於テ宗教法人トハ前項ノ規定ニ依ル法人ヲ、教派、宗派、教団、寺院及教会トハ各神道教派、仏教宗派及基督教其ノ他ノ宗教ノ教団並ニ寺院及教会ニシテ宗教法人タルモノヲ謂フ…」
日本国憲法(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行):信教の自由
第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
(『法律用語事典』有斐閣での説明から)
宗教団体に法人格を与え、宗教法人の設立、管理、規則の変更、合併、解散、登記及び宗教法人審議会等について定める)。
信教の自由の原則から、宗教上の組織、行為には関与していない。
創始者:
久保角太郎(1892--1944):(教団での呼称「久保御師」)
小谷喜美(1901--1971):(教団での呼称「小谷御師」)
信者数
84万世帯(1931年)
140万世帯(1960年)
1,197,711人(『宗教年鑑』令和2年版)
高度経済成長期(1960年~1973年[石油危機])
創始者
開祖:庭野日敬(1906--1999)
脇祖:長沼妙佼(1889--1957)
昭和40年代:会員数 約100万人
『宗教年鑑』令和2年版:2,283,023人
創始者
第3代会長(1960 - 1979)・名誉会長(1979 - ):池田大作(1928 - 2023) 会員数の急増:150万世帯(1960年)→755万世帯(1970年)
現在の会員数:827万世帯(教団HP 2021/11/21 18:10閲覧)
島薗は、世論調査を根拠に、現在の実質会員数は300万人から400万人と推測している(島薗『新宗教を問う』pp.250-251)。
1970年代~80年代
この時期の宗教問題として、靖国神社国営化問題、宗教界の部落差別問題、宗教法人の脱税問題などがあり、新宗教はこれらの問題に密接に関わった(西山)。
新宗教やその連合体の海外援助活動が活発化した(西山)。
宗教への入信理由に変化:従来の新宗教に多くみられた「貧病争」から、精神的な「空しさ」や神秘的・呪術的なものへの関心などに。
1980~90年代に精神世界(日本版ニューエイジ)が一部の若者たちの間で支持を集めた(大谷)。
1990年代以降
「新宗教がそれまでにもっていたとされる民衆運動、あるいは大衆運動というような性格を弱めたのが観察される。」(井上「新宗教」『現代宗教事典』)
「従来のように伝統宗教と深くつながったものではない、新しいタイプの運動も出現し始めた。」(同上)
新宗教と社会問題:いずれも別の回に。
統一教会と霊感商法
統一教会(世界基督教統一神霊協会)
教祖:文鮮明
1954年創立。
日本では、1954年から伝道開始。
エホバの証人と輸血拒否
日本における活動は、1911年、チャールズ・T・ラッセルが日本を訪問したときに始まる。
1926年、英語の「The Watch Tower」の日本語版である「灯台」誌が創刊され、「灯台社」がエホバの証人の日本支部として機能した。
第二次大戦後の1949年、宣教師が到着して活動が再組織された。
1953年には宗教法人「ものみの塔聖書冊子協会」が設立された。
同教団と輸血拒否
「宗教的理由から輸血拒否の意思を明らかにしていた「エホバの証人」のがん患者の意思に反して医師があえて輸血したという事案」(大石眞「自己決定権」『情報・知識 imidas 2018』):患者が医師・病院に対して損害賠償を求めた。
政府の対応(以前からのものも含めて):2023/11/27追加
2008-02-28:宗教的輸血拒否に関するガイドライン
宗教的輸血拒否に関する合同委員会報告 2008年2月28日
2012-03-09:医療ネグレクトにより児童の生命・身体に重大な影響がある場合の対応について(通知)
厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課長
雇児総発0309第2号 平成24年3月9日
2023-03-31:宗教の信仰等を背景とする医療ネグレクトが疑われる事案への対応について(通知)
厚生労働省子ども家庭局長
子発0331第10号 令和5年3月31日
2023-03-31の厚生労働省の通知を受けての、「エホバの証人問題支援弁護団」による調査結果。
「エホバの証人問題支援弁護団」の会見であることに注意。
他の時代区分
島薗進による区分(島薗『新宗教を問う』)
第1期:19世紀はじめ~明治中期 黒住教、天理教、金光教、丸山教、本門佛立講、など
第2期:明治後期~大正期 大本、国柱会
第3期:1920年代~60年代 新宗教の最盛期
第4期:1970年代以降 この時期に教勢を伸張した教団には、これまでの新宗教が共有していた特徴と異なる特徴が顕著である。
井上による異論:「新しい要素というのも、時代の影とするより、運動の個性として捉えるべきものの方が多い。」(井上『新宗教の解読』p.245)
(井上順孝「新日本宗教団体連合会」『現代宗教事典』)
1951年10月に結成。
1953年に財団法人として認可された。
主に新宗教教団が構成団体となっている。
「その基本理念は、宗教協力の推進と信教の自由の堅持を柱に、〈平和と自由〉の世界を築くことにあります。」(同連合会HP)
靖国神社の国家護持に、一貫して反対の姿勢をとっている。
1962年以来、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で「戦没者合同慰霊ならびに平和祈願式典」を毎年実施している。
2021年11月現在、58教団が加盟。